今日は1年で一番大切なお寺の年中行事である、宗祖 親鸞聖人のお徳を讃える法要『報恩講』の最終日でした。その法要の講師のお話の中に、とあるお寺の保育園の先生と園児のやり取りが紹介されました。
好き嫌いが多い○○君、いつも給食を残してばかりで、先生はほとほと困っていたそうです…ある時先生は「○○君、そんなに残したらもったいないよ…少しずつでいいから、食べてみようよ!」と声掛けをしたら園児から返ってきた言葉は「ちゃんと、給食代はお父さん、お母さんが払ってくれてるからいいじゃん!」って言ったそうです…これを講師から聞いた時はちょっと驚きました…正直、こまっしゃくれた子どもだな~って思いました。
でも、さらに驚いたのは、その園児の発言に対して返した先生の言葉でした…
先生…「○○君…給食代はどこに払われているのかな~?」
園児…「お魚を獲った人…野菜を作った人…料理してくれた人…あと~給食を運んでくれた人かな~」
ここまで答えられる園児も少ないよな~って思いつつ講師のお話に耳を傾けていました…
先生…「○○君…頭いいね~すごいね~でもね…」と続けて先生はこう言ったそうです。
先生…「お魚さんや、野菜やお肉の豚さんや牛さんや鶏さんには、○○君のお父さん、お母さんが保育園の給食代で支払ったお金から1円も支払われてないのよ…」
先生…「○○君がこれから、どんどん大きく成長するために生命(いのち)を投げ出しているのに1円も支払われてないのよ…」
先生…「嫌なものを無理に食べることはないのよ…でもね、○○君…せめて、いのちを投げ出してくれた食べ物に、食前の“いただきます”と食後の“ごちそうさま”は忘れないで言ってちょうだい…たとえ口に合わない苦手な物でも好物の物でも、いのちを○○君のために…たった一つの、かけがえのないいのちを投げ出してくれたんだから…」
その後、少しずつ偏食が減って小学校を卒業してから、保育園に親子で挨拶に行ったそうです。「あの時、この子を諭してくれたお陰で今では偏食はなくなりました…」と母親が深々と担任にお礼を言ったそうです。
講師の先生は、「今こそこの様な宗教的情操教育が必要なのですよ!」とおっしゃって下さいました。「真実(まこと)の教育は宗教的情操を幼い頃から体感できる環境でなければ育たない!」とも、おっしゃいました。「たとえ、それが仏教でもキリスト教でも、宗教系の幼稚園や保育園はいのちの尊さを肌で感じる環境が整っていて、幼いながらも子ども達は園生活で何かしらを感じ取っているんですよ…」とお話し下さいました。更に「当然、その園に勤務されている先生方も難しい宗教感はわからずとも、その園の風に促され、この様な発言が園児に対して自然に出たのでしょう…」とお話しを結ばれました。
この保育園の先生が、園児に話した全てを園児が理解したとは思いません…ただ、講師のお話しされた、“いのちの教育”を宗教園は担っているということ…更には先生方が園児に投げかける言葉の重さに深く深く頷き、心を新たにしたことでした。