どうして…


 また、幼児が事件に巻き込まれた。いつになったらなくなるのだろう…実母が我が子を手にかけた。
 1つは亡くなったと判断してコンクリートに詰めて放置したと報じられた、1つは10ヶ月の赤ちゃんをマンションから投げ落とした。
 お腹を痛めた子ではなかったのか?育児に疲れたのか?それとも他に理由があったのか?新しき命を抱いた喜びを忘れ去ってしまったのか?同じような事件を耳にするたび、落胆する。どうして?なぜ?悩みや苦しみは他人にはわからないが、その行為にいたるまで何か手立てはなかったのか?そんなに追い詰められたのか?いろんな思いが交錯する。
 戦時下を生き抜いてきたお寺の門徒さんのおばあさんが言う。「死ぬ気になればなんだってできたものを…」
 動物界(仏教では畜生道と言う世界)でも親は我が子を殺めはしない(自然淘汰はあったとしても)親は次世代に命を繋ぐため自らの命をなんのためらいもなく代償にして我が子を守る。それなのに、人間がこれでは…と憂う。高い知能をもったがゆえの苦悩なのか?
 仏教で言うところの「畜生道」は、恥を知らぬ世界を指す。つまり、現世の私達は動物界でもしない我が子を殺める行為を、いとも簡単にしてしまう生き物に堕ちてしまったのか?「恥」を忘れたのだろうか?「恥」を忘れたのであれば、反省も後悔も懺悔もない…ただ、争いの絶えない修羅の道を生きるしかない。
こんな時代だからこそ、かけがえのない生命(いのち)の尊さを幼き頃から学ぶ必要があると心の底から思う。
 少子が続くこれからの時代、いづみ幼稚園が存続し、生き残っていくには、親のニーズに柔軟に応えていかなければならいのは承知。
 しかしながら、親子の絆を深め、かつ幼児の人間形成上において重要な3~5歳児のこの時期に人として大切なことを体得できない幼稚園にはしたくない。
 ほそぼそでもいい…み仏さまの慈しみの心を身体で感じ、想像もつかない逆境や困難がその身にふりかかろうとも、桃太郎の様に果敢に立ち向かっていける子ども達を育てたい…
 不平・不満を言うのはた易い。しかし、置かれた立場でその困苦を乗り越える人間を、親子を育てる幼稚園でありたいと願う。花の種は落ちたところで花を咲かす、唯、一心に…
何十年かかるかわからない…でも見据え続けていこう!次世代に繋ぐまで…